コラム column

第五回 絲山秋子と吉田修一

地方を舞台とした「アンチ東京小説」のリアリティ

仲俣 暁生

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 物語の舞台がどこであるかを、人はどのくらい気にして小説を読むだろう。もちろん小説に書かれていることはすべてフィクション(絵空事)なのだから、舞台は架空の場所でも構わない。たとえ具体的な地名が記されていたとしても、物語中のその場所が現実そのままであるわけがない。
 そうしたことを前提としてなお、物語の舞台がどこであるかにこだわる小説家がいる。その一人が絲山秋子である。

 絲山秋子は平成15年に『イッツ・スモール・トーク』で文學界新人賞を受賞。デビュー2年目の平成17年に『沖で待つ』が芥川賞を受賞し、順調な作家生活をスタートさせた。平成18年には群馬県高崎市に移住。この地を拠点に骨太の作品を発表し続け、平成28年には地元を舞台にした傑作『薄情』で谷崎潤一郎賞を受賞した。
 絲山秋子の小説は、初期作品のいくつかをのぞいて基本的に「東京以外」の場所が物語の舞台となる。東京はもはや物語が紡がれる場としてはふさわしくない、とでもいうかのようにその態度は徹底している。

 その典型的な作品として、平成17年に発表された『逃亡くそたわけ』を今回はとりあげたい。一言でいえば、この作品は「ロードノベル」である。ロードノベルとは映画におけるロードムービー、つまり主人公が長い旅をする過程を描いた作品(基本的に自動車で移動し、相棒がいることが多い)の小説版のことだ。
 彼らが旅をする理由は多くの場合、広い意味での「逃亡」である何からの? もちろん自分たちを苦しめる現実からの

「資本論」から遠く離れて

 『逃亡くそたわけ』の主人公・花田(花ちゃん)は、彼女が入院していた「福岡タワーに近い百道病院という精神病院」の「C病棟という男女共同の開放病棟」から逃亡する。
 花田の頭のなかでは複数の人格がいつも自己主張を繰り広げている。Eは小さな女の子、Bは背の低い筋肉質の男、Fは30歳くらいのおばさん、Hは眼鏡をかけた書記。そして声だけで姿の見えない男Gがこう言うのだ。

逃げれば逃げるほど追いつめられる

 それでも花田は逃げる。旅の道連れは同じ病院に入院していた24歳のサラリーマン、「なごやん」こと蓬田司だ。病院を抜け出した二人はなごやんの愛車、昭和62年登録のマツダ・ルーチェに乗り込み、博多から九州を南へ、南へと下っていく。

 名古屋生まれのなごやんは東京が大好きな元慶応ボーイで、どこから来たかと問われると「東京です!」と言ってしまうような人物だ。博多弁まじりで話す花田と、(ある一瞬をのぞき)標準語で話しつづけるなごやん。二人の会話はまるで音楽における対位法のようだ。二人ともが博多弁で話したり、標準語で話したりしたのでは、おそらくこの小説は成り立たない。
 なごやんは、じつは社会復帰まであと少しのところで花田の逃避行に巻き込まれている。でも、そんななごやんだけが花田をかろうじてこの世界に繋ぎ止めており、それを知る彼は、自らに課せられた役割を最後まで果たす。利害や性愛を超えた男女の友情は、絲山秋子の小説において繰り返し描かれる主題である。
 この逃避行の間ずっと、花田はマルクスの『資本論』の一節を幻聴として聞いている。

亜麻布二十エレは上衣一着に値する

 英文科卒の花田自身は『資本論』など読んだことはないが、モトカレが経済学部だった。花田となごやんは恋人同士ではないし、この旅の途中でもそういうことには一度もならない。二人の関係は交換価値では量ることができないのだ。価値をめぐる「呪い」のようなマルクスの言葉が消えたとき、二人の旅は一応の終わりを迎えることになる

車種こそアイデンティティ

 絲山秋子は自動車好きとして知られており、多くの作品で自動車による〈移動〉が描かれている。たとえば平成16年に刊行された『海の仙人』では三億円の宝くじが当たって仕事を辞め、福井県の敦賀で暮らしている河野という男が、彼を慕ってやってきた元同僚の女・片桐の赤いアルファロメオを新潟まで走らせる。
 九州山中の険しい道を行く『逃亡くそたわけ』とは対照的な日本海沿いのこのドライブもまた、河野にとって自分の人生に一つの「決着」をつけるための旅だ。花田となごやんのような逃避行ではないが、ここでも〈移動〉は人生におけるのっぴきならない出来事と深く結びついている

 群馬県高崎市を舞台にした『薄情』でも、主人公の宇田川静生はつねに自動車で〈移動〉する。神主の跡取り息子である彼が乗るのは、白いフォレスターだ。
 絲山秋子の小説において、自動車はかならず具体的な車種とともに描かれる。どんな車に乗っているかということが、その者がどのような人物であるかということと、深く結びついている。地方を舞台にして小説を描くのであれば、このルールは厳密に遵守されるべきだろう。

 吉田修一のベストセラー小説『悪人』も、そのような作品である。
 福岡市と佐賀市をむすぶ全長48キロメートルの国道263号線をある夜、福岡市内から三瀬峠に向けて2台の自動車が走っている。先を行く福岡の大学生・増尾圭吾が運転しているのは紺のアウディA6。後続車は土木作業員・清水祐一の白のスカイライン。二人を繋ぐ人物は生命保険会社に勤める床屋の娘・石橋佳乃だが、この峠で起きたある出来事によって彼女は死んでしまう。
 こうして『悪人』という小説も「逃亡」の物語として動き始めるのだ。

地方内部での「格差」と「距離」

 吉田修一は平成9年に『最後の息子』が文學界新人賞を受賞してデビュー。平成14年に『パレード』が山本周五郎賞、『パーク・ライフ』が芥川賞を受賞して作家としての評価を確立した。
 以後、吉田は「東京を舞台にした小説」「長崎を舞台にした小説」を意識的に描き分けていく。『パレード』、『パーク・ライフ』さらに『東京湾景』(平成15年)が典型的な「東京小説」であるのに対し、『長崎乱楽坂』や『7月24日通り』(ともに平成16年)は地元・長崎を舞台にした「地方小説」だった。
 平成18年に朝日新聞夕刊で連載が始まり、翌年に単行本として刊行された『悪人』も基本的に後者の系列である。ただし物語は長崎市内にとどまらず、九州北部の広範囲にわたって展開していく

 ところで『悪人』には、アメリカ南部カンザス州のホルコムという村で1959年秋に現実に起きたクラッター一家の皆殺し事件を題材にした、トルーマン・カポーティの『冷血』を意識したような箇所がいくつかある。
 まず「彼女は誰に会いたかったか?」「彼は誰に会いたかったか?」といった章立てが、『冷血』の第一章「生きた彼らを最後に見たもの」を連想させる。冒頭の九州北部の地理に関する描写も同様であり、犯人の逃避行がロードノベル風なところも似ている(ちなみに『冷血』の犯人二人が逮捕時に乗っていたのは盗んだ「シヴォレー」である)。
 『悪人』は2001年の暮れから2002年の正月にかけての物語として進むが、この時期が選ばれたことにはそれなりの理由がある。平成12年5月、佐賀から福岡に向かう西日本鉄道(西鉄)の高速バス「わかくす号」が当時17歳の少年にバスジャックされ、乗客1名が殺害された(他に負傷者2名)。
 この事件は作中ではっきりと言及されている。物語後半で祐一と逃避行をする馬込光代は、佐賀市郊外の国道34号線、通称「佐賀バイパス」沿いの紳士服量販店で働いている。光代は西鉄バスジャック事件で襲われたバスに危うく乗るところだった。

 『悪人』の描写で際立つのは、「東京と地方の間」よりも「地方間」の微妙な格差や対比だ。三瀬峠で殺された石橋佳乃は(東京ディズニーランドではなく)「大阪のユニバーサルスタジオ」に増尾と行くことを夢見ていた。主人公の祐一はそんな佳乃に会いに、はるばる長崎市内から博多まで白のスカイラインを走らせる。佳乃の実家で父親が床屋を営む久留米駅前と博多との微妙な距離感もうまく描かれている。
 博多(福岡)、久留米、佐賀、長崎といった九州北部の地域間で織りなされる多種多様な〈移動〉を描いた『悪人』は、吉田修一の文句なしの代表作となった

「恋愛小説」の先を描く

 絲山秋子と吉田修一の作風は一見、それほど似ていない。共通点は文學界新人賞からデビューしたことと生年が近いこと(2歳差)ぐらいだから、二人の作品が同時に論じられることも少ないだろう。でも二人の小説はそんなに似てないだろうか。
 平成22年に公開された『悪人』の映画版(李相日監督)では清水祐一を妻夫木聡が、馬込光代を深津絵里が演じた。この映画は殺人を犯した男と、その男を愛した女との哀切な恋愛を描いた物語であるかのように進行する。だが幕切れの場面は原作にきわめて忠実であり、小説を読んでいなかった観客をさぞかし驚かせたことだろう。
 『悪人』の主人公・祐一と光代とは性交目的の「出会い系サイト」で知り合っており、二人の関係はじつは「恋愛」ではない。絲山秋子の『逃亡くそたわけ』で〈逃亡〉する花田となごやんは、そもそも性的な関係をもたない。

 絲山秋子や吉田修一が繰り返し描くのは、損得勘定を越えてつい動いてしまう人間の行為の愚かしさ、狂おしさ、切なさだ。そうした状況をシンプルに「恋愛小説」として書く作家たちもいる。でも絲山秋子や吉田修一は「恋愛小説」のさらに先を描こうとしていると私は思う。それは恋人同士や家族とは異なる人間同士の結びつきの可能性であり、そうした結びつきによってむしろあぶり出される、個人として人のあり方である。『悪人』が安易なハッピーエンドで終わるのではなく、祐一が背負わざるを得ない徹底した孤独と、どろりとした不気味さのなかで終わるのはそのためだ。

 絲山秋子は2014年に『離陸』という素晴らしい長編小説を発表している。『離陸』は東日本大震災後の日本各地(主な舞台は八木沢ダムのある群馬県沼田市と熊本県八代市)とフランスのパリを往還しつつ、ある女の空間と時間を越えた「逃亡」を描いた物語である。この女はまるで、首尾よく逃げおおせた「花ちゃん」のその後のように私には思えるのだった。

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