コラム column

第十二回 上遠野浩平と伊藤計劃〔前編〕

世界と「僕」を巡って

前島 賢

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「ファンタジー・ブームを終わらせた」作品

 前回の連載では、ライトノベルにおける最初の(ライトノベルの始まりとともにあった)ファンタジーの歴史を大雑把に振り返った。続く今回は、そのファンタジーブームを「終わらせた」と言われている作品から始めたい。上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』だ。
 本書は電撃文庫の小説新人賞、電撃ゲーム小説大賞(現・電撃小説大賞)の第4回大賞受賞作として、平成10年(1998年)に刊行された作品だ。
 今でこそ「エンタテインメントノベルでNo.1シェア」を掲げる電撃文庫だが、その創刊は平成5年(1993年)と、平成元年前後に相次いで創刊した角川スニーカー文庫や富士見ファンタジア文庫と比べると後発のレーベルと言える。(注1)そもそも本レーベルの創刊の背景には、俗に角川分裂事件、角川お家騒動とも言われる角川歴彦の角川書店からの独立と、株式会社メディアワークスの設立があるのだが、この一連の出来事については、たとえば大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた』(星海社新書)などを参照して頂きたい。

 創刊当初の電撃文庫は、そのラインナップにおいて、水野良やあかほりさとる、深沢美潮や中村うさぎなど、既存のライトノベル・レーベルでですに人気を博していた書き手が目立っていた。しかし同文庫の新人賞である電撃ゲーム小説大賞(現・電撃小説大賞)からは、高畑京一郎『クリス・クロス 混沌の魔王』(第1回金賞受賞作・94/H6年)、古橋秀之『ブラックロッド』(第2回大賞受賞作・96/H8年)、川上稔『パンツァーポリス1935』(第3回金賞受賞作・97/H9年)など個性的な、そして当時のライトノベルの主流であったファンタジーとは異なる作品が次々刊行され、少しずつ、その存在感を確かなものにしていった。(注2)1990年代はSFがその低迷から「冬の時代」と呼ばれていた時代であり、SF系の新人賞も、長い歴史を持つハヤカワ・SFコンテストが92年の第18回を最後に休止するなどしていた。こうした中、SF系の作家志望者の受け皿となったのが電撃文庫をはじめとするライトノベル系の新人賞であったとも言われている。
 それを決定的にしたのが、『ブギーポップは笑わない』という大ベストセラーの登場である。(注3)なお、上遠野と同じ第4回には、コメディの名手・阿智太郎が『僕の血を吸わないで』で、のちに一般文芸でも活躍する橋本紡が『猫目狩り』でそれぞれデビューしており、これもまた当時の電撃大賞がいかに多様な作品の受け皿になっていたかの証左のひとつと言えるだろう。

 上遠野浩平は、当時としては異例のハイペースで『ブギーポップ』の続編を刊行(98年、99年にそれぞれ4冊ずつ刊行されている)。その後も電撃文庫からは、時雨沢恵一『キノの旅』(00/H12年・シリーズ第1巻刊行)をはじめ、多くの人気作が次々と生まれた
 さらに電撃文庫以外でも、たとえば富士見ファンタジア文庫から刊行された学園ミリタリーコメディ、賀東招二『フルメタル・パニック!』(ブギーポップと同じく平成10年/98年シリーズ刊行開始)といったヒット作が生まれ、ライトノベル=ファンタジーという図式は、急速に塗り替えられていった

 電撃文庫については、その先は、おそらく多くの方がご存じのハズだ。ファンタジー世界から現代世界へとその主戦場を移したライトノベルにおいて、電撃文庫は高橋弥七郎『灼眼のシャナ』(02/H12年・シリーズ第1巻刊行)、鎌池和馬『とある魔術の禁書目録』(04/H16年・シリーズ第1巻刊行)、伏見つかさ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(08/H20年・シリーズ第1巻刊行)、そして前回も取り上げた川原礫『ソードアート・オンライン』(09/H21年・書籍版シリーズ第1巻刊行)や佐島勤『魔法科高校の劣等生』(11/H23年・書籍版シリーズ第1巻刊行)といったベストセラーを次々と送り出し、ライトノベルを代表するレーベルとなって、現在に至っている。

奇妙な青春小説

 そんな電撃文庫の飛躍のきっかけとなり、ライトノベルの歴史を決定的に変えた作品でありながら、『ブギーポップは笑わない』は、しかし、なんとも奇妙な小説だ。何がそんなにウケたのかと聞かれれば、即答は難しい。

 物語の筋自体は結構シンプルなものだ。とある学園に人喰いのバケモノが潜んでおり、これをひとりの女子高生の「もうひとつの人格」として現れる「変身ヒーロー」ブギーポップが打倒するという、実に単純な「現代学園異能」(というジャンル名がネットで生み出されたのはもっと後のことだが)に過ぎない。ただし本書は、その「単純な話」を、偶然事件に遭遇した目撃者Aや被害者B、協力者Cといった「脇役」たちの視点から、群像劇として描いており、それが第一の特徴となっている。当然、彼らは脇役だから、事件や、そこに隠された「世界の謎」の全貌などわかるはずもない。突然姿を消した友人が、実はバケモノの犠牲となったことさえ知ることができない人物、それどころか「学園で事件が起きていた」ということさえ気付けない人物などがいる。

 さらに本作は、そうした脇役たちの複数の視点を横断するという特権的な立場にあるはずの読み手にさえも、「世界の謎」の核心を見せようとはしない。なぜならば複数の断章を組み合わせて浮かび上がる「事件の真相」は、しかし、せいぜい作中で最も話の中心に近づいた「脇役」の認識と大差がないのだ。たしかに学園には人喰いのバケモノが存在し、それは謎の変身ヒーローに斃され、世界は救われた。だがバケモノの正体は何で、どこから来たのか。変身ヒーロー・ブギーポップとは何者だったかは、(少なくとも、第1巻を読む限りでは)まったくわからないのである。

 本書の重点は、他の群像劇がそうであるような、複数の視点が絡み合うことで思いもがけない事件が起こったり、それを統合することで隠された真相が明らかになったりするような謎解きの快感にはない(もちろん、そうした要素が皆無ではないにせよ)。
 むしろ中心となるのは、そのような脇役の立場におかれ、世界で起きている本質的な闘争に何もわからずに翻弄されながら、(あるいは、変身ヒーロー・ブギーポップが彼らに告げる奇妙な警句をよすがの一つとしながら、)それでも生きていくしかない等身大の登場人物の、切実な心情にある。例えば次のようなそれだ。

 ……起こったこと自体は、きっと簡単な物語なのだろう。傍目にはひどく混乱して、筋道がないように見えても、実際には実に単純な、よくある話に過ぎないのだろう。

 でも、私たち一人一人の立場からはその全貌が見えることはない。物語の登場人物は自分の役割の外側を知ることはできないのだ。

世界の信実から自分は疎外されてしまっている」「自分は何もわからないまま世界に翻弄されるしかない」……人間誰しも一度は(とりわけ若いうちは)そんなふうに思い悩んだことがあるはずだ。
 言ってみれば『ブギーポップは笑わない』は、人喰いのバケモノと変身ヒーローの対決という荒唐無稽な道具立てをもちいつつ、そんな思春期の疎外感と絶望感に寄り添い、同時に、小さな希望を描き出した、ライトノベル・レーベルならではの青春文学だった。

   [ + ]

1. そもそも本レーベルの創刊の背景には、俗に角川分裂事件、角川お家騒動とも言われる角川歴彦の角川書店からの独立と、株式会社メディアワークスの設立があるのだが、この一連の出来事については、たとえば大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた』(星海社新書)などを参照して頂きたい。
2. 1990年代はSFがその低迷から「冬の時代」と呼ばれていた時代であり、SF系の新人賞も、長い歴史を持つハヤカワ・SFコンテストが92年の第18回を最後に休止するなどしていた。こうした中、SF系の作家志望者の受け皿となったのが電撃文庫をはじめとするライトノベル系の新人賞であったとも言われている。
3. なお、上遠野と同じ第4回には、コメディの名手・阿智太郎が『僕の血を吸わないで』で、のちに一般文芸でも活躍する橋本紡が『猫目狩り』でそれぞれデビューしており、これもまた当時の電撃大賞がいかに多様な作品の受け皿になっていたかの証左のひとつと言えるだろう。

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