コラム column

第十四回 朝井リョウと加藤シゲアキ

「就活」というリアルとアンリアル

仲俣 暁生

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 平成という時代を象徴する小説家を一人だけ挙げようとすると、この時代のどの時期に着目するかによって大きく変わってくる。前半はまだ「J文学」などというくくりも可能だったが、後半になるにつれ小説ジャンルの幅も広がり、掲載媒体もウェブを含めて多様化していくが、逆に出版産業の市場は急速に縮小していったからだ。

 そこで思い切って後期平成、つまり平成20年以後に絞って考えることにする。西暦でいうと2008年以後に登場した若手のなかで、抜きん出て成功した者を一人挙げるとすると、「平成生まれ」の一人の小説家の名が思い浮かぶ。平成21年に『桐島、部活やめるってよ』で第22回小説すばる新人賞を受賞してデビューした朝井リョウである。
 朝井リョウは平成元年生まれで、デビュー時は平成19年に改組されたばかりの早稲田大学文化構想学部に在学中だった。卒業後は会社員として勤めながら創作を続け、長編4作目の『もういちど生まれる』が平成24年上半期の直木賞候補となり、同年下半期の直木賞を『何者』で受賞した。受賞時は23歳、平成生まれでは初の直木賞作家となった

自己申告のジレンマ

 『何者』はひとことで言えば「就活」をめぐる小説だ。おもな登場人物は御山大学に在学する五人の若者、二宮拓人・神谷光太郎・田名部瑞月・小早川理香・宮本隆良。拓人と光太郎はルームシェアをしており、光太郎と瑞月は元恋人同士、理香と隆良は同棲をはじめたばかりのカップルで、全員が22歳という設定である。
 語り手となるのは拓人で、彼の視点から就活期に突入した大学生特有の屈託した心理が描かれるのだが、それをリアルに描くうえで大きな役割を果たすのがツイッターという情報ツールだ。このことを宣言するかのように、『何者』の登場人物はツイッターのアイコンとプロフィールを模したかたちで紹介されている。

 「何者」とは就職活動を行う際に求職者が絶えず投げかけられる「あなたはどのような人間ですか?」という問いかけに対する答えであると同時に、ひとかどの人物つまり社会的成功者であるような存在のことでもある。冒頭に掲げられるツイッターの自己紹介欄はひとまずそのライトバージョンといえるが、就活時の面接にせよ、ツイッター上での発言にせよ、自己申告ほど当てにならないものはない。この小説の題名は、「自分は何者かでありたいし、あるはずなのだが、自分が『何者』である(ありたい)のかは、じつは自分でもよくわからない」という就活生のジレンマを象徴している。

スクールカーストから就活へ

 ところで、『何者』という小説のあらすじを語ることには、ほとんど意味がない。就職活動をめぐる「あるある」話、つまりエントリーシート記入から始まり、就職説明会、WEBテスト、OB訪問、数次にわたる面接、そして内定に至るステップと、その過程で起こる就活否定論とのバトル、部活やアルバイトと就活との兼ね合いなどが、ほぼリアリズムで描かれるだけだからだ。

 この小説の巧みさは、登場人物同士のコミュニケーションを、ツイッターという小道具をつかってオモテとウラの二重構造で描いたことにある(語り手の二宮は大学時代に「劇団プラネット」という劇団で演劇をしており、「にのみやたくと」という役者としての芸名をもっている)。地の文と現実の会話のほかに、「ツイッター上での発言」というもう一つの次元が加わることで、心理劇として一段深いところまでが描かれる

 物語の冒頭、拓人・光太郎・瑞月・理香の四人は理香が借りているマンションの一室に集まり、就活対策の会議を始める。理香はその様子をツイッターに投稿しており、拓人はそれをリアルタイムで読みつつ、「急に、ビールをごくごくと飲んでいる理香さんの笑顔が、ほんものではないように見えてくる」と感じる。拓人は理香の恋人で就活否定論者である隆良に対してはさらに攻撃的で、このような「業界人」ぶった自意識過剰なツイートが悪意をもってさらされる。

 宮本隆良 @takayoshi_miymoto  2日前
 彼女のシューカツ仲間がウチにて会議中。就活なんて想像したこともなかったから、ある意味、興味深い(笑)。そんな彼女たちを脇目に、買ってきた『思想を渡り歩く』を読み進める。ゼロ年代文化の転換期(変革期といってもいい)についてのコラム集。とっても興味深い。instagram……

 こうしたステレオタイプな「あるある」的就活ストーリーが表面上では進むが、それを語る拓人がじつは「信頼ならざる語り手」であり、語り手以外の登場人物によってしだいに拓人の欺瞞性が剥ぎ取られていく。『何者』はこうした小説らしい仕掛けによって、すぐれた作品になっている。
 朝井リョウが人間関係を描いていく上でのこうした繊細さはデビュー作の『桐島、部活やめるってよ』から一貫しており、「スクールカースト化」や「キャラクター化」が進行したといわれる平成年間の学校空間で育った世代特有のものに思えてならない。

マキャベリとホストクラブ

 平成生まれではないが、朝井リョウとほぼ同世代の若い小説家が、やはり就活を主題とした小説を書いている。昭和62年生まれ、ジャニーズ事務所に所属する男性アイドルグループNEWSのメンバーでもある加藤シゲアキが平成29年に発表した『チュベローズで待ってる』(AGE22、AGE32の上下2巻構成)だ。

 この小説の主人公であり語り手となるのは金平光太という大学生で、物語の開始時にはやはり22歳。『何者』の主人公と異なり、光太は新卒時の就職活動に失敗し就職浪人となる。だが父親が不在という家庭の事情で、光太はすぐにでもまとまった金を必要としている。題名の「チュベローズ」とは光也がスカウトされて働き始めるホストクラブの名称で、そこで光太は「光也」としてあたらしいアイデンティティを獲得することになる。

 就職活動とは「あなたはどのような人間ですか?」と絶えず質問を投げかけられ、それに対して本音とタテマエを織り交ぜつつ回答せざるをえないストレスフルなものだが、『チュベローズで待ってる』の主人公・光太は「光也」というもう一つのアイデンティティを獲得することで、最終的に就活のルールを踏み越えて志望企業への就職を果たす。その過程は『何者』ときわめて対照的である。

 この小説のポイントは、現役時の就職面接で光太を落とした張本人である女性会社員がホストクラブで「光也」と出会い、足繁く通うようになるばかりか、光太の翌年の就職活動に対してインサイダーとして便宜を図る、という構造にある。その際に象徴的に用いられるのが、マキャベリの『君主論』であるところが面白い。この小説の主題は、一言で言えばマキャベリズムなのだ

爽快なピカレスクロマンと後味の悪い「あるある」

 朝井リョウの『何者』では、就活否定派で「業界人の卵」であるような隆良が、とことん戯画的に描かれる。彼の言動こそがステレオタイプな就職否定論にすぎず、それも踏まえて「あえて就職活動をやっている」拓人のほうが、じつは現実をしっかり踏まえているのだ、という構図で拓人の語りは進む(それが一種の詐術であることは最後に明らかになるのだが)。

 それに対して『チュベローズで待ってる』での語りには、そうした仕掛けはない。ただ一つ、ひねりが加えられているのが40代の女性会社員・美津子が愛読する『君子論』についての記述である。光也は美津子と肉体関係をもつようになってから、この書物のある部分を思いうかべる。美津子こそがその「運命の女神」であると言わんばかりに。

 運命は女神であり、それを支配しておこうとするならば打ちのめしたり突いたりする必要があるからである。運命の女神は冷静にことを運ぶ人よりも果敢な人によく従うようである。それゆえ運命は女性と同じく若者の友である。若者は慎重さに欠け、より乱暴であり、しかもより大胆にそれを支配するからである。

 この二つの「就活」小説を比較すると、『何者』が語りのレベルの複数性によって単純なエンターテインメントから一歩踏み込んだものになっているのに対し、『チュベローズで待ってる』はマキャベリズムを掲げつつも案外シンプルなエンターテインメント小説である。人が死ぬ話である後者の読後感がスッキリしているのに対し、あらすじ的には単なる「あるある」話の前者は、正直にいって後味があまりよくない

 朝井リョウが描く登場人物が、彼らが背負っている文化資本や社会関係資本から、どちらかといえば社会の中間層より上の位置にいるように読めるが、加藤シゲアキが描く登場人物は、ミドルクラスからはみ出てしまう者たち、いわばアウトサイダーである。
 朝井リョウはステレオタイプ化された「就活」を、それに対する単純な否定ではなく、かといって現状肯定でもないかたちで繊細に描いたが、その繊細さは平成年間の学校空間のリアリズムの延長線上にある。他方、加藤シゲアキはマキャベリズムという思想を盛り込んだかたちで、「就活」を題材に一種のピカレスクロマン(悪漢小説)を描いたといえるだろうか。

就活から遠く離れて?

 「就活」とは人間が社会的な存在=社会人になるための通過儀礼だとすれば、その先にある現実こそが本当の社会である。だから二つの「就活」小説は、それぞれに続編をもっている。『何者』には『何様』と題された短編集が平成28年に出ており、その表題作は就活を企業側で受け止める人事担当者側の視点で描かれる。朝井リョウの小説では、学校空間と同様、企業空間も基本的には肯定されるべき場であることがわかる。

 『チュベローズで待ってる』の場合は同時に発表された「AGE32」編がそれにあたり、光太が志望企業で働き始めて10年後の日々が描かれるのだが、そこには意外などんでん返しが用意されており、「AGE22」を単独の作品として読むよりも一段深い楽しみ方ができる。

 ところで、こうした「就活」小説が書かれ、読者からもかなりの共感をもって受け止められた背景には、平成年間の若い世代にとって共有できる通過儀礼としての体験が、「就活」しかなくなってしまったという端的な事実があるように思える。そのことがもつ意味がはっきり見えてくるのは、この時代から遠く離れた将来の読者によってだろう。

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