コラム column

第十五回 藤井太洋と深緑野分

「公正さ」は日本の小説を世界と連帯させる

仲俣 暁生

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 新たな元号への改元を前に、平成年間に書かれた小説を読み返す旅も、私の担当回はこれで最後となる。それにふさわしい作品を今回は紹介するつもりだ。
 平成の30年間(とりわけその後半)はグローバリゼーションとIT化の時代だった。前者が意味するのはたんにモノや経済の国際化だけではなく、価値観や倫理観が共有される範囲がグローバルに拡大したということだ。インターネットをはじめとするITの進化がそれに拍車をかけた。小説の世界も当然、それとは無縁ではいられない。

 こうした環境変化によって新しいタイプの世界的なベストセラーが生まれた。たとえばスウェーデンの作家スティーグ・ラーソンによる『ミレニアム』シリーズのような社会派ミステリーである。
 ラーソンは元ジャーナリストで、平成17年(2005年)に原著が出版されたシリーズ第1部『ドラゴン・タトゥーの女』は彼にとっての処女作だった。ラーソン自身はその成功を見届けずに亡くなったが、別の作家の手による第4部・第5部までを合わせると、全世界でシリーズ累計1億部に迫るベストセラーとなっている。

 『ミレニアム』で描かれたのは過去の戦争の傷痕としてのヘイトクライム、ナショナリズムやジェンダーの問題といったきわめて重たいテーマだが、危機に果敢に立ち向かう女性主人公の孤独な戦いを、テクノロジーと名もなき者たちのネットワークが支える。こうした新しいタイプの倫理観を備えた作品が、日本でも書かれるようになってきた。

電子書籍のセルフパブリッシングでデビュー

 平成24年は日本における電子書籍ブレイクの年だった。アマゾンが日本でもキンドルのサービスを開始し、これと前後して他のプラットフォームも電子書籍ビジネスに参入した。こうした新しい出版環境のなかで、作家自身が作品を電子書籍として出版・販売することを意味する「セルフパブリッシング(自己出版)」という言葉を日本でもよく見かけるようになった。

 インターネットが崩壊した後の世界を舞台に、拡張現実(AR)や遺伝子デザインといったテクノロジーにより大きく変化した社会のあり方を描いたのが、藤井太洋のデビュー作『Gene Mapper』である。作品の完成度とそれを証明する7000部以上の販売実績により、同作は日本における電子書籍セルフパブリッシングを象徴する存在となった

 この小説を増補改稿した『Gene Mapper -full build-』が早川書房から刊行されたのを期に、藤井は専業作家に転身する。宇宙を舞台にしたテクノ・スリラーともいうべき長編第2作『オービタル・クラウド』は平成27年度の日本SF大賞と星雲賞を同時受賞し、ネット世界における自由をテーマとした連作短編集『ハロー・ワールド』が平成31年に吉川英治文学新人賞を受賞するなど、藤井太洋はエンターテインメント小説の分野で着実に高い評価を得ていく。

 今回取り上げたいのは、平成31年に刊行された藤井太洋の長編第4作『東京の子』である。版元が用意した〈この小説は、これから「’20年代」を 生き抜いていく我々の希望になる。〉というキャッチフレーズは同作の魅力をうまく伝える言葉だが、それはどのような意味においてだろうか。

非正規的な立場にいる者たちへのフェアな眼差し

 『東京の子』は2020年のオリンピック開催後のこの都市を舞台にした、一種の「青春小説」である。主人公の仮部諌牟(カリブ)は、特別な道具を用いずに障害物を乗り越えたりすばやく移動する「パルクール」と呼ばれるパフォーマンスを得意としている。少年時代に〈ナッツ・ゼロ〉という名で投稿したユーチューブ動画が人気を呼び、三億回を超える再生回数を得たことがある彼は、その広告収入で他人の戸籍を買い、いまはこの新しい名前で暮らしている。
 カリブの仕事は、逃亡した外国人労働者を職場復帰させることだ。国家戦略特区となった東京オリンピック会場の跡地には、〈東京デュアル〉の愛称で呼ばれる人材開発を目的とした大学校が開校している。そこで働きながら学んでいる日本人を恋人にもつ、ファムというベトナム人女性をカリブは追っている。

 〈東京デュアル〉は学生に対し、就学ローンの提供と卒業後の就職先とをリンクさせた制度を提供しているが、これは形を変えた一種の人身売買ではないか。ファムはそのことを知り、告発を行おうとしている。この小説の背景にあるのは、すでに私たちの社会において大きな役割を果たしている移民や外国人労働者の存在であり、彼らとの共生を可能とする社会制度の設計という課題だ。
 藤井太洋の小説は『東京の子』だけに限らず、社会において非正規的な立場にいる者たちへのフェアな眼差しに満ちている。ナショナリティやジェンダーにおける少数者だけでなく、極端な少子高齢化社会に生きる若い世代も、いまや一種のマイノリティなのかもしれない。

 メディアがくり返し伝える未来に対する否定的なアナウンスに抗するかのように、藤井太洋は現時点で手に入る知識とツール――そしてほんの少しの勇気によって――絶望的に思える状況は改善できるのだ、ということを描いてきた。事実、ファムを追ううち、カリブも仮の名前を捨て、自身のアイデンティティを取り戻すことを決意する。

 スタートラインにおいて不利な場所にいる者、いったんは社会の正規ルートから外れてしまった者たちが、知性とテクノロジーの力によってどのようにして生き延びていくのか。その論理と倫理を問う藤井太洋の作品は、あきらかに「スティーグ・ラーソン以後」の小説であることを思わせる。

21世紀のいま日本で書かれ、読まれるべき小説

 そのような倫理観をもつ小説家としてもう一人、深緑野分の名を挙げておきたい。
 東京創元社主催の第7回「ミステリーズ!新人賞」(平成22年)で、美しい庭園で起きた惨劇を描いた「オーブランの少女」が佳作として入賞。同作を表題作とする短編集『オーブランの少女』は平成25年に東京創元社から刊行され、深緑野分は小説家としてデビューした。

 第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦を題材とした平成28年の長編第1作『戦場のコックたち』が直木賞候補となったことで、深緑の存在はより多くの読者に知られることとなった。この小説は、人の死をあえてゲームのように描く本格ミステリーでもなければ、人を死なせることのない「日常の謎」派のミステリーでもない。この小説の主人公・合衆国陸軍特技兵ティモシー・コールの任務は、戦場で将兵にコックとして食事をサーブすることだ。あまりにも日常的に人が死ぬ戦場で、それでも「食事」という「日常」の維持に命を賭けるコックたちの奮戦を描いたこの作品は、卓抜なミステリーであると同時に、これまでにないユニークな「戦争小説」だった。

 そして平成30年、深緑野分は長編第3作『ベルリンは晴れているか』を発表する。「オーブランの少女」で一度試みたモチーフを長編として語り直した同作は、第二次世界大戦終戦直後の占領下ベルリンで、さまざまな困難に立ち向かう17歳のユダヤ人少女を主人公とする物語である。
 この小説は、たんに「過去」を舞台とした戦争ミステリーではない。21世紀のいま日本でこの小説が書かれ、読まれることには意味がある。注意深い読者であれば、この小説において作者の深緑野分が、きわめて現代的ともいえる公正さで、物語を紡いでいることに気づくはずだ。国籍・階級・民族・宗教・思想・ジェンダーといったレッテルから登場人物を引き剥がし、徹頭徹尾、個として尊重するという倫理観のもとでこの小説は描かれている。殺す側も、殺される側も、等しく人間だからこそこの小説は痛切であり、壮絶であり、しかし最後には希望を感じさせてくれるのだ。

困難な場所で戦っている者との連帯

 『ベルリンは晴れているか』の主人公・アウグステは、ベルリンのアメリカ占領区域にある慰安用兵員食堂で働く少女だ。彼女の両親はすでになく、少女時代はローレンツ夫妻のもとで暮らしていた。その夫であるクリストフが、米軍配給物資の歯磨き粉に混ぜられた毒物により死亡するところから、この物語は始まる。

 連合国により破壊しつくされたベルリンには、いまなお「人狼」と呼ばれるナチスの残党がいると噂され、秘密警察などを統括するソ連のNKVD(内務人民委員部)はその活動を追っている。アウグステはその渦中に巻き込まれ、占領下のベルリンで蠢くさまざまな権力の思惑を知ってしまう。

 そんなアウグステが唯一の心の支えとするのは、亡き父に買ってもらった英語版のエーリヒ・ケストナーの小説『エーミールと探偵たち』だ。この小説内の少年たちと同じように、アウグステは一種の「探偵」役となり、仲間となった浮浪児の少年たちとともに、ローレンツ夫妻のもとを去ったエーリヒという妻の甥の行方を探す。
 この小説にも『東京の子』のカリブと同様、自分の本当の名前を隠して生きる人物がいる。ユダヤ人ではないにもかかわらず、その容貌を活かして「滑稽なユダヤ人役の俳優」として生き延びてきた「カフカ」という名の青年だ。カフカはアウグステたちと行動をともにし、旧ドイツの国策映画社ウーファの跡地に乗り込む。そして戦時下における過去の自分と対峙することになる。

 絶望的な状況で生きるベルリンの少年少女を描いたこの小説は、藤井太洋の『東京の子』がオリンピック後の時代の希望を描いたのと同様、戦後における「ベルリンの子」のその後の希望を描いた小説であり、ひいては日本の若い世代に向けた希望の物語だといえる。

 平成という時代はまもなく終わるが、その間に日本の小説は、大きなアップデートを経た。小説の革新は題材や技法においてだけでなく、書き手の意識において起きたと言うべきだろう。激変する21世紀の世界のなかで小説が果たすべき役割はなにか。そのことを真摯に突き詰めたなら、日本の現代小説は、私たち以上に困難な場所で戦っている者とも連帯しうるはずだ。藤井太洋と深緑野分の小説は、そのことを私たちに教えてくれる。

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