コラム column

第三回 角田光代と桐野夏生

女たちにとっての「自由」と「エコノミー」

仲俣 暁生

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 「平成」という時代を象徴する言葉の一つとして、「失われた○○年」というものがある。昭和末期に最高潮に達したバブル経済が破綻し、その後、現在に至るまで続く長いデフレと不況の時代を指す言葉だ。この時代に失われたものは、日本社会の経済的繁栄だけではない。個人の内面にかかわること、たとえば変化を怖れない勇気だったり、自由に生きることへの希望などもまた、この長い停滞の時代に失われたような気がする。

 そんな時代に、長い時間をかけて独自の世界を築き上げてきた二人の女性の小説家を今回は取り上げてみたい。一人は角田光代、そしてもう一人は桐野夏生。ともに直木賞受賞作家という共通点はあるが、デビュー時の小説ジャンルも世代もずいぶん異なるこの二人を、「エコノミー」つまり、おカネの話にかかわる作品で読み比べてみたい

 デビューの時期が早い角田光代のほうから行こう。昭和42年(1967年)神奈川県生まれの角田は、平成2年に短編「幸福な遊戯」が前回も話題にした文芸誌「海燕」の新人賞(第9回)を受賞し、「純文学」の作家としてデビューした。実は、大学在学中の昭和63年に「彩河杏」という筆名で「コバルト・ノベル大賞」も受賞しており、この名義でジュニア小説の著作が7冊ある。

 角田光代は純文学作家としてのデビュー後、芥川賞の候補に何度も挙げられながら受賞を果たせず、やがて児童文学風の作品を並行して書くようになる。平成10年には『ぼくはきみのおにいさん』が坪田譲治文学賞を受賞、平成12年には『キッドナップ・ツアー』が路傍の石文学賞を受賞するなど、この分野での評価も高まった。その後、平成16年にタイプの異なる二人の女性の交流を二つの時系列で描き出す『対岸の彼女』が直木三十五賞を受賞したことで方向性が定まり、いまは物語性の高い長編小説の作家として活躍している。

「フリーター」の経済感覚

 そうした紆余曲折を経て人気作家となった角田光代の作品のなかでも、あまり言及されることのない『エコノミカル・パレス』という作品に今回は注目してみたい。
 平成14年に発表されたこの小説は、純文学風のスタイルで書かれた初期作品の系譜につらなるものだ。物語の舞台は21世紀に入ったばかりの東京。主人公は「雑文書き」を職業とする34歳の独身女性「私」で、学生時代からの恋人ヤスオはミュージシャンである。お互いに三十代に入っても生活が安定せず、同棲生活が続いている。二人とも、ようするに「フリーター」なのだ。
 そんな二人の経済状況を示唆するかのように、この小説はいきなり、コンビニ商品の羅列から始まる

 冷凍食品のお好み焼き、メーカーは加ト吉、おにぎり二個、いくらとチキンマヨネーズ、ペットボトルの冷たいお茶が切れている、アーモンドチョコレート、素麺のつゆ、単四乾電池四個、発泡酒ロング缶三本、というのが、携帯に電話をかけてきてヤスオがたのんだ品々で、私はそれを復唱しながらコンビニエンスストアの店内を歩く。

 「私」は少しでも安く済ませようとヤスオの注文を無視し、おにぎりは「五十円引きセール中の梅とおかか」、お茶は「二百九十八円のペットボトルではなく、九十八円の紙パック」を選ぶ。以下、この物語はこうしたつましい貧乏生活のディテールが、これでもかというほど描かれる。
 二人が出会ったのは昭和末期で、当時は「私」にもヤスオにも実入りのいいアルバイト仕事がいくらでもあった。しかし平成に入り、バブルは弾けて景気は悪化。壊れたエアコンの修理代が足りず、消費者金融に手を出すまでになる。

 「雑文書き」だけでは食えない「私」は、安い時給でビストロのアルバイトをしている。そこで出会った料理人志望の二十歳の青年・立花光輝に、「私」は次第に心惹かれていく。若い頃のライフスタイルを変えられないまま自堕落に生きる「私」は、光輝の若さとストイックさが羨ましい。光輝と会うときに着るための新しい服の代金や、消費者金融への返済のため、「私」はカラオケスナックでアルバイトを始める。だが、鏡に映した自分の身体が告げる真実は残酷だ。

 パンツから数本の陰毛が飛び出している。全体的に肌にはりがない。洟をかんでまるめたまま長いあいだ放置されたティッシュみたいに、ただ白く、しなびた感すらある。醜い。うつくしいだろうとは思っていなかったが、こうまで醜いとは思わなかった。直視するのがつらいがかえって目をそらすことができない。

 「私」が光輝から、さらに絶望的な言葉を投げかけられるのは当然であった。

現実の犯罪事件を題材にした小説

 ここで今回とりあげるもう一人の作家、桐野夏生に登場していただくことにする。昭和26年生まれの桐野のデビュー作は、平成5年に第39回江戸川乱歩賞を受賞した『顔に降りかかる雨』という長編ミステリだ。遅いデビューの部類に属するが、じつは角田光代と同様、それまでに別名義(野原野枝実など)でジュニア小説やロマンス小説、漫画原作などを手がけていた時期がある。

 桐野は「ミステリ作家」としてデビューしたが、平成11年に『柔らかな頬』で直木三十五賞を受賞。以後は、より広い作風でさまざまな小説を発表するようになる。そのなかでも今回は『OUT』という長編を取り上げたい。この作品は日本推理作家協会賞を受賞したほか、のちに英訳されて、アメリカの名誉あるミステリ小説の賞「エドガー賞長編賞」の候補にノミネートされるほど高い評価を得た。桐野夏生の代表作の一つである。

 『OUT』が刊行されたのは平成9年7月。この年は3月にいわゆる「東電OL殺人事件」(のちに桐野夏生はこの作品を題材に『グロテスク』という長編を書いた)が起き、6月には「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った神戸連続児童殺傷事件の犯人の少年が逮捕された。また2年前の平成7年には阪神淡路大震災と、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きている。「平成」という時代の一面を象徴する、陰惨な犯罪事件が相次いで起きた時期に『OUT』は構想・執筆されたことになる

 『OUT』の舞台となるのは東京西部、武蔵村山市にある弁当工場だ。主要な登場人物は、ここでパートとしてともに働く四人の主婦(香取雅子、山本弥生、城之内邦子、吾妻ヨシエ)。世代の異なる四人のなかで、山本弥生は奇しくも『エコノミカル・パレス』の「私」と同じ34歳である。彼女もまた、作中で自らの身体を鏡に映す。

 憎しみだ。この感情を、憎しみというのだ。
 山本弥生は姿見に映る自分の全身を眺めながら思った。三十四歳の白い裸体のほぼ中央、鳩尾に際立った青黒い、ほぼ円形の痣がある。昨夜、夫、健司の拳固をここで受けたのだ。

 弥生の夫・健司はギャンブル中毒で、子育て中の家に稼ぎを入れようとしない。夜勤続きで疲れ果てた弥生は、ある夜、泥酔して帰宅した夫の首を締めて殺してしまう。だが、弥生から相談を受けたパート仲間の雅子は一計を案じ、邦子、ヨシエらと共謀して健司の遺体をバラバラにして遺棄する(この設定にヒントを与えたと思われる「井の頭公園バラバラ殺人事件」は平成6年に起きている)。

 健司はバカラ賭博にも手を出しており、そのことが、物語のもう一方の主人公である佐竹光義というヤクザと、四人の女たち(とりわけ雅子)との接点となる。健司殺しの実相を見抜かれた雅子は佐竹に執拗に命を狙われ、最後に二人は弁当工場内で死闘を繰り広げることになる。
 こうしたサスペンスあふれる展開が本作の魅力だが、物語の本筋を離れると『OUT』には平成中期を象徴する様々なエピソードが書き込まれていることに気づく。

「死体分解処理」のギャラの相場

 そのなかでも金銭をめぐるものを見てみよう。四人のなかで、もっとも経済観念がゆるいのは邦子だ。彼女はクレジットカードで借り入れをくり返しており、パートの稼ぎだけでは首が回らない生活をしている。邦子が健司の遺体遺棄に協力する動機はカネである。
 弥生は健司にかけていた生命保険がおり、いったんは巨額の現金を手に入れるが、佐竹に脅されてそのすべてを失う。
 雅子とヨシエは、健司の遺体を成功裏に処理しえた(とはじめは思われた)ことで、事情を知る十文字という男から、同様の遺体遺棄をビジネスとして引き受けないかともちかけられる。ギャランティの交渉になったとき、雅子はこういう。

 雅子は煙草に火をつけ、口早に言った。
「五百じゃなきゃやらないよ」
「えっ」十文字は声を上げた。「五百?」
「そう。あんたは簡単に考えているかもしれないけど、大変な作業なんだよ。汚れるし気持ち悪いし、悪い夢は見るし。自分でやってみりゃよくわかると思うけど(略)」

 男が「えっ」と声を上げたのは、自分が切り出した「三百」という数字への返答がこれだったからだ。ちなみに、仲介するだけで何もしない男の取り分は「二百」。あらためて読むと、このくだりは「家事労働」(死体の分解と処理は、作中ではまるで台所仕事のように淡々と描かれる)に対する、男からの低い評価を象徴する場面になっている。

 昭和61年から男女雇用機会均等法が施行されて、昭和末期は「女の時代」とさえ呼ばれたほど、女性の社会進出が進んだ時代だった。けれども現実には、昭和が終わった後も、社会における男女の経済格差は埋まらない。雅子というヒロインが戦う相手は、佐竹という自分によく似た怪物的人物というよりも、社会をとりまく社会全体であるかのようだ

「カネ」と「自由」とが織りなす方程式

 『OUT』における四人の女性がたどるそれぞれ異なる運命は、そのまま「平成」という時代における女たちと「カネ」との関係のバリエーションに置き換えられる。そして『エコノミカル・パレス』における「私」の無様な失恋も、「カネ」と「自由」とが織りなす多様な方程式の一つとしてみることができる。光輝は自分が自由になるためにカネを「私」から受け取るわけにはいかなかった。そして「私」が真に自由になるためには、彼女もまた、本業で稼がなければならないのだ。
 角田光代は『エコノミカル・パレス』の二年後に発表した、やや自伝的な要素を含むと思われる『対岸の彼女』を最後に、自身の似姿のような登場人物を描くことから決別し、スケールの大きな物語を描く作家へと脱皮する。それは同時に、売れる作家、稼げる作家となることをも意味した。

 ともにジュニア小説の書き手としてスタートし、一方は「純文学」、もう一方は「ミステリー」の賞を受賞して「再デビュー」した二人の作家は、やがてかなり似たタイプの小説を書くようになる。それぞれがスタートした狭いジャンルの壁を乗り越えることで、名実ともに、この時代を象徴する大作家となったといってもいい
 平成という停滞の時代に、「変化を怖れない勇気」によって、書くことの、そして生きることの自由を獲得していった彼女らの小説には、いっけん平凡ながらも強さを備えた女たちが登場する。その「強さ」を支えているのは、変化を怖れずに書き続けてきた自分自身への信頼なのだと思う。

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