コラム column

第十三回 福井晴敏と百田尚樹

娯楽作品は「戦争」と「軍隊」をどう描いたか

仲俣 暁生

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
画像

 平成元年は第二次世界大戦が終わってから44年目の年だった。昭和天皇が崩御したこの年、20歳で終戦を迎えた世代はまだ64歳。戦場体験のある人たちがこの頃の日本社会には大勢存在した。しかし30年の年月を減るうちに、「先の戦争」の記憶は次第に薄れていく

 その一方で、平成年間は自衛隊がはじめて海外に展開した時代でもある。平成3年に勃発した湾岸戦争に際し、日本が人的貢献を果たさなかったことへ国際的な圧力が強まると、政府はPKO協力法を成立させて自衛隊の海外派遣に道を開いた。
 平成15年にはイラク戦争の勃発を受けてイラク復興特別措置法が成立。平成18年には改正防衛省設置法・自衛隊法が成立し、翌年には防衛庁が防衛省に格上げされた。2015年には集団的自衛権の行使を可能とするいわゆる安保法制(国際平和支援法、改正周辺事態法など)をめぐって国会周辺で激しいデモが行われたが、関連諸法は成立した。
 また平成6年の阪神淡路大震災、23年の東日本大震災をはじめとして平成年間には大きな自然災害が相次いだ。災害派遣を通じて自衛隊の存在感は次第に増し、国民から一定の信頼感を得ていくことになる。

 こうした時代のなかで、軍や戦争を題材にして描かれたエンタテインメント小説のあり方も、昭和や平成初期とは少しずつ変わっていった。その一つの例が前回に紹介した有川浩の「自衛隊」三部作だが、今回は男性作家がどのように戦争や軍隊を描いたのかを見ていきたい。

日本人はいまだに「12歳」なのか

 平成10年、第44回江戸川乱歩賞を受賞した『Twelve Y.O.』は福井晴敏のデビュー作である。福井は前年の同賞にも『川の深さは』で応募していたが、惜しくも落選。このとき審査員の一人である大沢在昌が選評で激賞し、「来年こそは待つ」と呼びかけたエピソードはよく知られている。大沢の期待にみごとに応え、福井はデビューした。

 『Twelve Y.O.』は自衛隊と沖縄の在日米軍をめぐる物語だ。「トゥエルブ」と名乗る者が在日米軍基地のコンピュータ・ネットワーク・システムに侵入し、海兵隊の撤退を要求する電子テロ攻撃を行う。この「トゥエルブ」という名には、かつてダグラス・マッカーサーが日本人の精神年齢を12歳だと表現した事実が投影されている。
 登場人物の一人である平という自衛官は、このテロリスト――じつは彼の命を救った恩人でもある――の真意をこう語る。「トゥエルブは、米軍潰しや沖縄の解放を企図しているのではない。在日米軍を叩き出し、日米安保に寄りかかってひとり立ちを拒み続けてきた日本の基盤を揺さぶることで、変革を促そうとしているのだ」と。

 この小説の最後で、沖縄の辺野古弾薬庫は大規模な爆発事故によって消滅する。この出来事が「辺野古ディストラクション」と呼ばれている『Twelve Y.O.』の後日譚が、平成11年に刊行された福井晴敏の長篇第2作『亡国のイージス』だ。同作は日本推理作家協会賞と大藪春彦賞、日本冒険小説協会大賞(平成23年まで存続)を受賞し、直木賞の候補ともなった。
 『亡国のイージス』は複雑なプロットをもつサスペンス小説だ。「辺野古ディストラクション」によって隠滅された特殊兵器「GUSOH」が、朝鮮民主主義人民共和国の工作員により奪取された後、密かに護衛艦《いそかぜ》に持ち込まれる。以後、物語の主要な舞台は自衛隊の反乱グループに乗っ取られた《いそかぜ》の艦内にほぼ限られる。
 反乱グループは日本国政府に過大な要求を掲げ、拒絶されれば「GUSOH」の使用も辞さないという。東京湾内で《いそかぜ》が「GUSOH」を使用すれば、首都圏は間違いなく壊滅する。それを阻止するため、一等海士の如月と先任伍長の仙石は《いそかぜ》内で反乱グループと壮絶な戦いを繰り広げる。

架空戦記に込められた願い

 《いそかぜ》艦長・宮津の息子は防衛大学校を中退した後に事故死したが、『亡国のイージス』というタイトルは彼が書いた論文「亡国の楯」から採られている。

 ギリシャ神話に登場する、どんな攻撃もはね返す楯、それがイージスの語源だ。しかし現状では、イージス艦を始めとする自衛隊装備は防御する国家を失ってしまっている。亡国の楯だ。それは国民も、我々自身も望むものではない。必要なのは国防の楯であり、守るべき国の形そのものであるはずだ

 こうした息子の思いを宮津は「破滅的なまでに純粋で、一途」だと感じる。だが息子の死はやがて宮津の運命を変え、そして如月や仙石の運命も変えてしまう。

 『亡国のイージス』は政治的なメッセージを打ち出すことを主軸とした作品ではなく、一種の冒険小説、すなわち大掛かりな設定のもとでスリルとサスペンスを楽しむエンタテインメント小説だが、日本という国家に対するこうした「一途な」感覚は、福井晴敏という作家にとって切実なものだった。(それはデビュー前に書かれのちに刊行された『川の深さは』から一貫している。)それは長い停滞の時代となった平成年間の日本人のマジョリティにも次第に受け入れられていく。「そうではない、もう一つの日本」への願望がそこから立ち現れても不思議ではない

 福井晴敏はこの作品の成功により作家としての足場を固め、平成14年に刊行された第二次世界大戦末期を舞台とする一種の架空戦記『終戦のローレライ』では、米軍による東京への三発目の原子爆弾投下――まさに「亡国」――を阻む大日本帝国海軍の架空の潜水艦《伊507》の苦闘を描いた。
 平成ガメラシリーズの特技監督・樋口真嗣による映画化を前提に書かれたとされる長大なこの小説は、初期3作の壮大な前日譚でもある。その終章で主人公の女性パウラ・A・エブナーはアツコ(温子)という日本名で登場し、戦後昭和から平成にかけて日本を見舞った多くの出来事を振り返りつつ、孫娘・弥生の世代にささやかな期待を託してこの物語は終わる。

疑似ノンフィクションというテクニック

 ところで『終戦のローレライ』で《伊507》が戦う相手は、アメリカ海軍のエセックス級空母《タイコンデロガ》である。この名称の航空母艦は実在し、昭和20年1月に行われた台湾沖海戦において神風特別攻撃隊新高隊の攻撃を受け、大破炎上した。

 空母タイコンデロガに対する特攻攻撃という史実をモチーフとしつつ、舞台を終戦間近の南西諸島沖での戦いに置き換え、架空の神風特攻隊員・宮部久蔵というヒーローを造形したのが平成18年に刊行された百田尚樹のデビュー作『永遠の0』である。
 すでに放送作家として活躍していた百田にとって初の小説作品である『永遠の0』は、太田出版から刊行された単行本段階ではそれほど注目されなかったが、平成21年に講談社文庫に入った後、300万部を超えるベストセラーとなった
 この小説は、現代に生きる「戦争を知らない」世代の若者である佐伯慶子と健太郎の姉弟が、戦場経験をもつ元軍人や元兵士の話を聞いてまわるという体裁になっている。慶子はある新聞社の終戦記念プロジェクトに携わることになったフリーライターで、健太郎は司法試験を続けて不合格となり人生の目標を失っている青年という設定だ。

 過激な保守論客である現在の百田尚樹のイメージからは意外なことに、この小説は当初、きわめて穏当に語り起こされる。宮部久蔵は佐伯姉弟の実の祖父、つまり祖母が再婚する前の最初の結婚相手だったのだが、戦争末期に特攻攻撃で死んだ。だが生前の久蔵を知る者たちは口を揃えて彼が「臆病者だった」「死ぬのを恐れていた」という。必ず生きて帰ると宣言し、戦場での死を避けるためにあらゆる配慮を怠らなかった久蔵がなぜ、最後には自ら志願して特攻隊となったのか。この小説はその謎解きを軸に進む。

 久蔵の思い出を語る人々の回想は太平洋戦争の成り行きとおなじく「真珠湾」「ラバウル」「ガダルカナル」と進むため、この小説を読むものは、あの戦争とは現実にはどのようなものだったのかを、あたかもノンフィクション作品を読むように体験する――すなわち疑似ノンフィクションの手法である。『永遠の0』は史実とフィクションとを織り交ぜ、たくみなストーリーテリングによって人々の心を動かすことに成功した、きわめてテクニカルな作品なのである。

『君たちはどう生きるか』とそっくりな売れ方

 戦争のリアリティをまったく知らない若い世代である健太郎は、この謎解きの過程でしだいに自らの考えを変えていく。いわゆる「リベラル」な思想の持ち主だった姉の慶子も、彼女に好意を抱く新聞記者の思想的影響から離れ自立していく。
 こうした筋書きからも分かるとおり、百田尚樹の『永遠の0』は「娯楽作品のかたちをとった教育小説」とでもいうべきものだ。若い登場人物が「破滅的なまでに純粋で、一途」な思いを抱くという設定でありながらも、『亡国のイージス』が徹頭徹尾、エンタテインメント作品であるのとはじつに対照的である。

 『永遠の0』が空前のベストセラーになったのは、そこに込められている思想信条の違いを超えて、むしろ昨今の『君たちはどう生きるか』のケースとよく似ている(著者の吉野源三郎は戦後の左翼論壇の土台をつくった岩波書店の編集者だが、この小説が書かれたのは戦時下の昭和12年である)。ある意味で『永遠の0』も読者に「君たちはどう生きるか」と問いかけ、態度変更を求める物語なのである。
 放送作家としての豊富な経験から、百田尚樹には既存の素材をもとにわかりやすいストーリーを語ることができた。そのバランスがもっともよいかたちで現れたのが『永遠の0』だとすれば、その方法論がついに破綻したのが平成29年に刊行された『日本国紀』だったと言えるかもしれない。残念ながらこの本では、『永遠の0』ではまだ働いていた抑制が失われてしまっていた。どんなに優れたストーリーテラーであっても、物語を政治に従属させてしまえば、その輝きは失われてしまうということだろうか。

この記事への感想・コメントを送る

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

※お送りいただいた感想・コメントは monokaki 編集部に届きます。このページには表示されません。
※感想・コメントへの返信はしておりません。個別のお問い合わせはこちらまで。

↑↑