小説レビュー review
2018.02.27

『おらおらでひとりいぐも』

にぎやかな孤独

木村 綾子

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 このごろよく、祖母と話をしている。
 彼女が90歳を越え、もうほとんどのことを忘れてしまったころから、意識して、話をするようにしている。
 東京に住む私か、田舎に住む祖母か、どちらかが話をしたくなると、ふたりの間を父がつないでくれる。
 話すときは、iPhoneのFaceTimeという機能をつかう。父から祖母にiPhoneが渡るとき、内蔵カメラの枠の中にスムーズに祖母の顔が収まることもあれば、通じたそばから画面が揺れて、実家の床や庭の飛び石や祖母のしわくちゃの指が映ることもある。そのあいだ、私はただ黙って、祖母が私を拾い上げてくれるのを待っている。祖母が“iPhoneを拾い上げる”ではなく、“私を拾い上げる”のを待っている、という感覚がそのときにはある。
 しばらくしてやっと、ふたりの視線が合う。視線が合うと、会話がはじまる。
 「ばあば」と私が言うと、「はあい」と、祖母が答える。「綾子だよ」と重ねると、「あやちゃん?」と、自分が発する一音一音をたしかめるように、時間をかけて、名前を呼ぶ。呼びながら、画面越しの祖母の表情がすぐにひらくこともあれば、会話を終えるときまでついに、他人行儀なままのこともある。
 こうした不器用な時間は、やりとりを何度重ねてもまるではじめてのように、ぎこちないものとしてそこに存在していて、いまの私はそれがとてもいとおしい。

 63歳の新人として若竹千佐子さんが書いた玄冬小説『おらおらでひとりいぐも』は、第54回文藝賞、第158回芥川賞を受賞した。
 結婚を3日後に控えた24歳の秋、自分だけの新しい人生を求め、東京オリンピックのファンファーレに押し出されるように故郷を飛び出した主人公の桃子さん。身ひとつで上野駅に降り立ってから50年。住み慣れた都市近郊の新興住宅でひとり、ねずみの音に耳をすませるうち、桃子さんの脳内に聞こえてくるのは、ジャズセッションのように東北弁でしゃべる、内から聞こえる数多の声。
 捨てた故郷、疎遠になった息子と娘、亡き夫への愛……。世間から必要とされる役割をすべて終えた人間に与えられた、老いながら生きること、とは?身悶えするほどの悲しみのなかで桃子さんは考え続ける。そして声は問い続ける。———んでもその先に何があんだべ。

 どこさ行っても悲しみも喜びも絶望もなにもかもついでまわた、んだべ
 それでも、まだ次の一歩を踏み出した
 ああ鳥肌が経つ。ため息が出る
 すごい、すごい、おめはんだちはすごい。おらどはすごい
 生ぎで死んで生ぎで死んで生ぎで死んで生ぎで死んで生ぎで死んで生ぎで
 気の遠ぐなるような長い時間を
 つないでつないでつないでつないでつないでつないでつなぎにつないで
 今、おらがいる
 そうまでしてつながっただいじな命だ、奇跡のような命だ
 おらはちゃんとに生きだべか

 激白の果てに辿り着いたのは、「玄冬」という圧倒的自由とにぎやかな孤独。そこにはやはりファンファーレの高鳴りを聴いた気がした。しかしそれはかつての主人公が、東京オリンピックのときに聴いた外部からの音ではない。その音を鳴らしていたのは、桃子さんという「個」に記憶された過去の日々、親や先祖、歴史に刻まれた出来事、出会ってきた者、出会わなかったけれど確かに存在していた者たちだった。
 まなざしの先が、最果てなくひらかれていくのを感じた。

 あれは、まだ祖母がたくさんのことを覚えていた頃のことだった。
 きまぐれに帰省した私のもとに祖母が突然やってきて、ノートの束を見せて言った。
 「あやちゃんが生まれるずっと前から書き溜めていたの。でももう書くことはないと思うから、もしよかったらこれ、もらってくれない?」
 それは自作の短歌集だった。歌は21歳の春から始まり、冊数が増えていく中で彼女は嫁ぎ、母となり、夫を失い、老いていった。
 歌にはそれを詠んだ日付と、そのときどきの出来事や思いなどが走り書きのように、まるで暗号のように添えられていた。だからその折々で、祖母が実際に何を思い、何を悩み、何を祈り歌にしたのか、すべては分からなかった。けれど分かったこともあった。そこに綴られていたもののほとんどは、祖母がこれまで私に語らなかった・・・・・・日々だったということ。歌集の中には、私の知らないもう一人の祖母の人生があった。
 なぜ私だったのだろう。祖母はなぜ、こういうかたちで私に過去を託そうと思ったのだろう。
 けれどそれを聞けずにいたら、祖母はとうとう、歌集の存在さえ忘れてしまった。それでも日々は過ぎていった。

 祖母と話をするとき、私はノートの中から短歌を一首、拾って声に出し、彼女に届けるようにしている。かつての祖母が詠んだ短歌をいま、私が代わりに読むと、祖母は無邪気にこう、聞く。
 「ねぇその歌は、なあに?」
 祖母の問いに答えるように、私は短歌に意味を与える。与えながらもうひとつの祖母の人生に思いを馳せる。彼女を歌で蘇らせる。

 けれど一方で、こうも思う。彼女はいま、とても大きな幸せの中に生きているのではないか。
 21歳から綴り続けてきた歌集日記を手放し、それが自分のものであったことも、それ以外のもっと多くのことさえ忘れ、ほんの一握、忘れることのできなかった記憶とともに、玄冬を生きることを決めたのではなかったか。

 縁側の籐椅子に腰掛けて、祖母は今日も耳をすませている。
 その姿に、桃子さんが重なる。
 おだやかな沈黙からも、にぎやかな声が聞こえてくる。

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