小説レビュー review

『ビニール傘』

女、ふたり、東京の場合。

木村 綾子

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 これは私がよく知っている女ふたりの東京の話。

 ふたりは幼馴染だった。高校を卒業すると、田舎から東京に出てきて、下北沢に1DKのアパートを借りて一緒に暮らしはじめた。1995年のことだ。
 ひとりは短大を卒業後、ファッション誌のライターになった。もうひとりは美容師になり表参道で働きはじめた。
 やりたい仕事に就けたとはいえ、暮らしがすぐに裕福になったわけではなかった。 
 狭いアパートにそれぞれの部屋はなく、生活空間にはつねにふたりの持ち物がいっしょくたにされていた。けれど、趣味も合い、双子のように仲の良かった彼女たちにとって、その空間を彩ることは容易かった。
 カーテンは赤。キッチンにはチェッカーフラッグのシートを敷き、文化屋雑貨店や大中で買ってきたポップな小物を棚に並べた。シングルベッドはふたり並んで寝るには狭かったけれど、ダブルを置くスペースはなかったから、年中こたつを出していた。喧嘩をした夜は、どちらかがそこで寝た。
 互いの友人もよくアパートに遊びに来た。誰がどっちの友人だったかなんてどうでもよくなるくらい、彼らもまた仲を深めていった。
 その日のできごとや、数年後なっていたい自分、夏の旅行計画、新しくできたバンドマンの恋人、遅れていた生理がきたこと。こたつテーブルの上に広がった酒や惣菜、空になったスナック菓子の袋。写真機能がついたばかりの二つ折りの携帯電話がにぶく震えた。持ち主はトイレに行っていて、別の誰かがそれに出た。個人が混じり合うと帯びる匿名性が、ここちよかった。
 けれどあのころ。誰もがつねに、なにかに対してどうしようもなく、満たされなさを感じていた気がする。それがなになのかがわからないから、ああして肌を寄せ合っていた気もする。

 『ビニール傘』は、社会学者の岸政彦による初の小説であり、第156回芥川賞候補、そして第30回三島由紀夫賞の候補に挙がった。
 表題作には、大阪の片隅で暮らす、若く貧しい”俺”と”女”の生活の断片が綴られる。
“俺”はタクシーの運転手で、安いガールズバーのバイトであろう若い女を乗せて走る。けれど“俺”はビルの清掃員でもあり、コンビニの店員でもあり、工場で働いてもいる。“俺”を存在しないものとして扱う“女”がいれば、マクドの前で待ち伏せするものもいる。“俺”には友だちはおろか彼女のひとりもできたことがないが、仕事を辞めて引きこもりになった同棲中の“女”もいる。
 “女”もまた、タクシーの中でマスカラを流して泣く夜を過ごせば、故郷を捨てながらも子どものときに買ったミッキーマウスのぬいぐるみを捨てられないものもいる。いろいろと問題はあるけれどそれなりにうまくやってきた“俺”と“女”は、しかし五百円のビニール傘の中で別れを決め、“女”は故郷へ帰った。
 登場人物は、大阪という街のなかで誰もが代替可能のもののように描かれる。海の波を丁寧に描写したシーンが象徴的だ。けれど、読者である自分がさっき入った喫茶店で偶然聞いた誰かの生活や人間関係が、かつて見た街や部屋の様子、残酷であるのにすがりたくなるような記憶と重なったとき、波から放たれた一粒が光を反射してきわだつように、登場人物も輪郭を持ちはじめる。
 そうなると、景色は一変する。
 どこにでも売っているビニール傘の中では、代替不可能な生活が実はあるのだと訴えたくなる。コンビニに入ってまた出てきたとき、傘立ての中から自分のビニール傘を正確に見つけることは煩わしく、思わず一番抜きやすいひとつを選びがちだけど、自分のがないとはっきり気づくこともあって、そのときほど、誰のものでもない「私」の「生」がないがしろにされた不快感をおぼえることはない。というように。

 女ふたりの東京生活は、25歳のとき、いったんひとつひとつに分かれた。
 美容師の彼女が出ていくと、ライターの彼女は恋人と一緒にそこで同棲をはじめた。喧嘩別れでなかったことは、美容師の新しいアパートがその家から歩いて数分のところであったことからも知れる。
 ではふたりになにがあったのか。なにに違和感をおぼえ、伝え合い、同時になにを言わないまま離れることを決めたのか、そこまではわからない。
 ふたりは41歳になった。
 結婚をしていた時期もあったが、いまはシングルマザーとして娘とともに暮らしている。その間に仕事も変わった。
 2年前、ひとりの住むマンションの隣の部屋に空きができたことをきっかけに、もうひとりがそこに越してきた。一緒に住むという選択はしなかった。
 ふたりと、その娘ふたり。生活は下北沢で続いている。
 それぞれの部屋には、あいかわらず互いの友人がよく遊びに来る。けれどもう、個人が混じり合うと帯びる匿名性は、そこにない。


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