小説レビュー review

第四回 姉妹ヒロイン

「母娘」のメタファー? 変わりゆく姉妹ヒロイン

三宅 香帆

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サツキとメイはなぜ姉妹なのか

日本でいちばん有名な「姉妹」のヒロインといえば、だれが挙がるだろう?
ちびまるこちゃん、メロンパンナちゃん。ほかにおそらく挙がる名前の候補として、『となりのトトロ』(1988)のサツキとメイ。

実は宮崎駿は、『トトロ』最初の構想段階では、姉妹ではなくひとりの少女を主人公としていたらしい。じゃあなぜ主人公は姉妹に分けられたのだろう? もちろん話の展開を膨らませるため、とかそんな事情もあるだろうけど、まずは『トトロ』の主人公がなぜ姉妹か、について考えるところから始めたい。
サツキは母代わりとして振る舞う姉だ。お弁当をつくり、妹の世話をする。そして妹がいなくなったとき、「どうしよう」と泣きながらサツキは、まるで母の代わりのようにトトロを頼る。
そう、『トトロ』において姉・サツキはまるで母のように振る舞う。そしてメイに危険が訪れたとき、自分は(しっかりとメイを守り続ける)母であり続けることはできない、と泣く。だからトトロの出番が訪れる。
……なんて考えてみると、トトロを主人公たちの母(の代わり)として存在させるために、サツキに「私の代わりにお母さん役をして!」とトトロにせがませるために、主人公たちは「姉妹」になったのか!? という深読みもできる、気が、してくる。

ちょっと最初から深読みしすぎたかもしれないけれど、今回は「姉妹」ヒロインについて考えてみたい。トトロを例にしてみると、物語のなかの「姉妹」ヒロインには、とある法則があると私は考えている。
物語における「姉妹」は、時に「母娘」のメタファーとして存在する、ということだ。

『アナと雪の女王』は母娘の物語?

物語において、姉は母の真似をして妹の世話をする。――たとえば『若草物語』(オルコット)を読めばそれは一目瞭然だ。四姉妹の話でありながら、長女のメグはまるで母のように振る舞う。
と言うと、怪訝な顔をされるかもしれない。「え、姉妹は姉妹でしょう? 母娘を描きたかったらそのまま母娘を描けばよくない?」と。
だけどもうすぐ続編が公開される『アナと雪の女王』(2013)を考えてみたい。

最初は仲良しだった姉妹。だけど姉のエルサは、自分の力が人を傷つけてしまうことを知り、山奥へこもる。……と、この山にこもる原因が何だったかといえば、妹のアナが早々に結婚を決めたことに「早すぎる」と反対し、それでアナが反発したことだった。

そもそも、エルサが暴走するきっかけが「妹の結婚への反対」なのは、エピソードとして弱すぎるように見える(たとえば自分が傷つけられた末の反発……といったエピソードでもいいはずだ)。ディズニーがあえて「あなたのためを思って言ってるのに」とでも言いたげなエルサのエピソードを持ってきたのは、アナとエルサの関係が「母娘」のメタファーだったからではないか。
まるで娘の結婚に反対し、暴走する母親のようにエルサを描いた。古今東西の物語で出てきた「娘を支配する母親」(ユングが「グレートマザー」と呼んだやつだ)のモチーフを踏襲しているように見える。

19世紀イギリスの古典的な「姉妹」像

そう考えると、古今東西の「姉妹」ヒロインも、べつの見方ができる。
たとえばオースティンの『分別と多感』(1811)。理性と自制心を持って行動する「分別」のある姉エリナーと、情熱や感情を重んじるタイプの「多感」な妹マリアンが主人公だ。

たとえばマリアンが若く未熟な発言をするのに対し、エリナーは配慮ある助言を与える。それはまるで姉というよりも、娘を心配する母親のような姿でもある。
物語の後半、マリアンの闘病も描かれる。ここにもやっぱりエリナーがマリアンの保護者であるかのような描写が登場するのだ。もちろん美しい姉妹愛の場面にも見えるのだけど、姉妹愛の中身とは「姉妹」を物語で描くときについ「母娘」のパターンを踏襲してしまうことでもある。

物語で姉妹を描くとき、私たちはつい「母娘」の関係を重ねてしまうらしい。トトロやアナ雪を例に出すまでもなく、「落ち着いた姉と元気な妹」がテンプレートとして存在するのもそのためだろう。だからこそ「姉妹」はしばしば「母娘」のメタファーとして意図的に描かれる。それは私たちがどこかで「姉妹」キャラクターを「母娘」的な関係として見ていることが下敷きにある。
今回例に挙げた『トトロ』や『アナ雪』は、実際の母親キャラクターがほぼ不在の物語である。だからこそ姉が母代わりのキャラクターになり得る。……が、これは偶然だろうか? 作者が「姉妹」を描く際に「母娘」の踏襲になってしまうからこそ、同じ役割を果たす実際の「母」は不在になるのではないだろうか。

母を脱却しようとする姉

最後に、姉が母の立場を脱却しようとした物語について考えてみたい。マーガレット・アトウッドの『昏き目の暗殺者』(2000)。20世紀を代表する「姉妹文学」だ。

例に漏れず理性的な姉と無邪気な妹が主人公になっているのだけれど、作中、姉アイリスが自身の結婚式に向かう場面がある。お世辞にも愛のある結婚とは言えない関係。それを知っている妹ローラは、姉を「そんな結婚しなくていいじゃない」となじる。「キスだけじゃすまないのよ」と。まるで母の性的な面を見ることを嫌がる娘のような場面だ。
おそらく古典的な姉妹の物語――たとえば『分別と多感』や『となりのトトロ』――であれば、妹をたしなめる姉を描いただけで終えただろう。しかし『昏き目の暗殺者』はこう綴る。

「ひっぱたいてやってもよかった。しかし、もちろん、そう思ってひそかに自分を慰めただけだった」(ハヤカワepi文庫、鴻巣友季子訳)

この一文の、限界と、超えたかったものが分かるだろうか。無邪気な妹を守ったり、世話したりする母親役としての姉、からの脱却をしようとする姿。だけど実際に「ひっぱたく」まではいかない姉の姿。ここで、おそらく「ひっぱたく」ことを行使し、自己嫌悪に陥ったのが『アナと雪の女王』のエルサだったのだろう

私たちは「姉妹」を描くとき、さらっと「母と娘」のような、世話をし、世話をされる関係を求めがちである。だけどそれは古典的な要請にすぎない。姉妹は、その先にある、姉妹の関係性を見出されていく。今後、姉妹だからといって安易なキャラクター類型に収めず、たとえば女友達のような姉妹の関係性、あるいは姉妹の中でしか描けない葛藤や対立、そして理解しあう姿が見られることを期待したい。

(タイトルカット:ゆあ

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